hagisonのブログ

2000年頃、統合失調症を発症。現在、妻と娘2人と生活中。

本願他力

自分の努力が足りないのだ。もっと、自分自身がちゃんとしないと。

自分の行いが悪いから、こんなことになってるのだもっと良い行いをしないと。

いつもこんなんだから、ダメなんだ。もっと考えて行動しないと。


こんな風にいつも考えてました。


「自力」


でなんとかしてやろうと、それは間違ってはいないのですが、ただ、自分の器では、なんともならないことが多いものです。


「自力」


でなんとかしようとするのをやめてみよう。そうゆう風に考えだしたのは、親鸞に関する著作をいくつか読みだしてからです。


「他力」


初めて聞いたとき、なにか現実逃避をしているような、生半可な考えではないのか?

そんな風に誤解をしていました。


浄土宗・浄土真宗でいうで「他力」とは、「他」とは阿弥陀如来を指し、「力」とは如来の本願力(はたらき)をいう。「他力本願」の「他力」はこの意であり、他人の助力などの意ではないみたいです。


我々は、煩悩具足の凡夫です。ただ、至心に阿弥陀如来の本願力にすがればいいのでしょう。


たとい我、仏を得んに、十方衆生、心を至し信楽して我が国に生まれんと欲うて、乃至十念せん。もし生まれずは、正覚を取らじ。唯五逆と正法を誹謗せんをば除く。


この弥陀の第18願ほど素晴らしい誓いはないと思います。

歎異抄

 

歎異抄 (講談社学術文庫)

歎異抄 (講談社学術文庫)

 

 

善人なおもて往生をとぐ、言わんや悪人をや

これは、親鸞が弟子の唯円に語ったとされる「歎異抄」の中の有名な一節です。

悪人すら極楽浄土に行けるなら、善人は、なおさら必ず極楽浄土に行ける

これなら理解できるのですが

善人すら極楽浄土へ行けるのだから、まして悪人なら必ず極楽浄土にいける。

これは、それまでの仏教の考えとは大きく変わった、かなり革新的な思想です。

鍛錬に鍛錬を重ね修行を積み、良い行いし、良い思考を持って、段々、仏に近づき、「自力」で極楽浄土へ往生する。こんな考えが当時の普通でしたが、それでは、「自力」では多額のお布施を出来ない普通の人やただ、毎日を食うために盲信的に生きている人は救われないではないか。

それは、おかしいと考えたのが、法然親鸞浄土教の人たちです。

極楽浄土の宿主である阿弥陀如来は公平です。極楽浄土に生まれたいと至心に思った人やないし十回でも、阿弥陀如来の名号を唱えたものは、必ず極楽浄土に往生させると誓ってます。

「自力」でなんとかできる、いわば出来の良い人を救うためではなく、何も出来ない「他力」にすがるしかない、普通の人いや悪人がすがる教え、それが浄土真宗、親鸞の教えではないでしょうか。

自分はこの教えで、少し救われました。

 

ほぼ日について

ほぼ日刊イトイ新聞「ほぼ日」で吉本隆明さんの全講演を無料で聴けるようにアーカイブ化しています。

とても素晴らしいことです。

自分もたまに深夜、家族が寝静まってから、独りで聴かせてもらってます。

吉本さんの主に宗教に関する講演を2,3聴かせてもらいましたが、吉本さんの講演はとても誠実な印象を受けます。

難解でわからないところも多々ありますが。(笑)

吉本さんはすでに亡くなっていて今はそうではありませんが、糸井さんのほぼ日で、たびたび吉本さんの家を尋ねてます。

糸井さんは吉本さんの後継者のように、事あるごと吉本さんの意見を確かめてました。

なんか、すごいなあ。と遠くから見てワクワクしてました。

自分の日課の一つに11時に「ほぼ日」の「今日のダーリン」を読むことがあります。とても勉強になったり共感をしたり、笑ったり、ちょっと気まずい思いをしたり、日々色々な気持ちにさせてくれます。

自分は「ほぼ日」の吉本隆明さんのコラムで「親鸞」のことを知ったりしました。

この「悪人正機」はとても素晴らしい本です。皆さんに読んでほしいと思い、紹介します。吉本隆明さんと糸井重里さんのタッグです。

悪人正機 (新潮文庫)

悪人正機 (新潮文庫)

 

 

親鸞について

五木寛之さんが小説「親鸞」を出版した頃、4,5年くらい前から自分は親鸞の思想に興味を持ち始めました。

親鸞」を読んでみれば?

そう勧めてくれたのは、般若心経を教えてくれた父でした。

親鸞については名前ぐらいしか知りませんでした。

親鸞は言わずと知れた浄土真宗の開祖です。仏教を世俗に解体した破戒僧です。

親鸞は鎌倉時代の僧侶で浄土宗の法然を師にもってます。

当時、公然と言うのはタブーとされていた、妻帯をし、肉食をしていました。

仏教というのは、自然に対して自己を鍛錬するという自力の修行が第一にあるのだろうと思ってましたが、浄土教はまるで違います。親鸞に至っては、ほとんど真逆の「他力」という我が計らいにあらずという思想です。

 

本願他力

 

これは、素晴らしい思想です。

自分達のような煩悩具足の凡夫には、自分の力で修行や勉強をして悟りの境地や極楽浄土にいくなど、とうてい無理です。

ただ、阿弥陀如来の本願、第18願にがって、その名号を唱えるのみです。

何も特別な難しい修行をしなくてもいい、ただ、「南無阿弥陀仏」と弥陀の名号を唱えるだけで救われる。

そんなシンプルな「他力」の思想に心を奪われました。

これからも親鸞については書くと思いますが、今日はこの辺にしときます。

親鸞(下) (講談社文庫)

親鸞(下) (講談社文庫)

 

 

親鸞(上) (講談社文庫)

親鸞(上) (講談社文庫)

 

 

 

ハードルを下げるということ

自分は元来、完璧主義なところがあったと思います。

若い頃、自分がカッコ悪いと思ってることに厳しかったです。

そうありたくない。カッコ悪いのは嫌だと変なプライドが高かったと思います。

色んな人の目を気にして、あれこれ心配するより、あははと笑って、どっしり構えてること素晴らしさが、若い頃の自分にはわかりませんでした。

自分は精神薬を飲んでるという事実が若い頃は特に許せなかったです。

そんな根性ない男かあ。情けないと自虐的に思ってました。

あと、その精神薬を飲むことの副作用である、太るということも耐えられなかったです。

でも、最近は違います。

薬の力を借りなければやっていけないない弱さや、むくんだり、太ったりすることも、ある程度仕方ないかなと思ってます。

そんなハードルを上げずに、もっと小さなことで満足しようと思ってます。小さなハードルを飛び続ければいいかと思ってます。

有名になる必要もないし、名声も必要ない。ただ、家族がいて、仕事に毎日通える幸せがなによりだと思ってます。

ハードルを上げると理想的な自分に近くなり、自己満足は満たされますが、もう、いい。頑張っても出来ないこともある。そんなに出来の良くない自分には小さな、誰にでも出来るようなことが出来れば充分だと思ってます。

小欲知足

仏教の言葉に「小欲知足」というものがあります。これはその名の通り、欲を小さくして足るを知るということです。

自分は若い時に、こんなのじゃ足りないと欲にかまけて、欲のままに行動していたと思います。

いつも、こんなはずではない。もっと満ち足りた生活を送りたいと、もっともっとと欲をかいていたと思います。

今、40歳を超え、家族を作ることができた自分は、改めて考えるまでもなく、ただ自分を必要としてくれる家族がいる。その事実だけで充分に満足です。

高価な最先端の服飾もいらないし、贅沢な食事もいらない。ただ平穏にささやかに笑って暮らせるなら、それ以上に望むのはもったいないことです。欲を小さくして足るを知る。自然とそうゆう気持ちになります。

これが歳をとること。加齢することなら、喜んでこの変化を受け入れようと思います。

若い時に何か欲を持って、目標に向かって邁進することを否定する気はありません。

ただ、身の丈を知るというか、求め過ぎないことは大切な知恵のような気がします。

努力を重ねて何かをどんどん成し遂げていく人を否定する気はありませんし、そうゆう人が社会のある部分を豊かにするのでしょう。

43歳の誕生日に特別をご馳走もなくただ、家族といれて幸せを感じた中年男の思いでした。

色即是空

症状が今みたいに安定せずにまだ重かった時に田舎の父がこれを読んでみればと送ってくれた本がありました。ひろさちやさんの「ひろさちやの般若心経」です。

般若心経とても短く日本で最もポピュラーなお経の一つです。

最初は(その当時、症状が重かったのもあって)こんな仏教の本なんか読みたくないよとその辺に置きっ放しにしていましたが、

何かのタイミングで少し読んでみると興味深い内容でした。

あまり難しいことは理解出来ませんでしたが、なるほど父が進めた理由がわかったような気がしました。

 

色即是空 空即是色

 

聞いたことのあるフレーズでしたが、それまで意味は知りませんでした。

 

(あるものはないし、ないものはある。)それまでの自分の頭にあった妄想や幻聴と比べて考えると、これは面白い発想だなと思いました。

(自分が思ってる妄想、幻聴はあると思えばあるし、ないと思えばない。)

不思議な呪文の様に、パニックになった時に

 

色即是空 空即是色

 

と唱えると心がすーとして落ち着きました。統合失調症の患者さんに般若心経を試してみるのはありなのかなあと思いました。

ひろさちやの般若心経88講

ひろさちやの般若心経88講